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藤の屋文具店

藤の屋文具店

孤独の色

 小学生のころ、色盲検査というのがあった。当時の僕はそれがど
ういうものかわからず、たとえば赤い色が緑に見えてしまう、そう
いう病気だと思っていた。ようするに、赤いクレヨンを出しなさい
といえばミドリを、黄色といえば青を、という具合に、色がみんな
と違う具合に見える、そういう症状だと思っていたのである。

 わりと物事をしつこく考えるのが好きな僕は、この日もなんとな
くこのことについて考え始めた。赤ちゃんがいて、もしも色盲だと
して、例えば赤いクレヨンが緑に見えたとする。でも彼は、その色
を大人たちから「赤」であると教えられてそう呼ぶのだから、彼に
とってそれがどんな色に感じられようとも、成長して言葉をしゃべ
るようになれば、彼は赤いクレヨンを「赤い」と呼ぶに違いない。
 ならば、彼が色盲であるということは、正常であるということと
何の違いも無いわけで、色盲というのは、色の名前を覚えた大人が
その病気にかかったときに初めてわかる、そういうものなのだろう
か、と。

 後日、色盲というのは色の区別をつける能力の弱い症状、ようす
るに白黒テレビのように見える症状だということがわかったのだが、
当初の疑問は解決したものの、果たして、僕の感じている「赤」と、
となりの子の感じている「赤」は同じ色なのだろうか、そういう疑
問がむらむらと湧いてきた。つまり、僕の感じているポストの「赤」
は、実は他人が「黄色」と感じているものであったとしても、僕は
それを「赤」と教え込まれて育ったから「赤」と呼び、誰に気づか
れることもなく、僕は世界標準の「黄色」の感覚を「赤」であると
信じて疑わない、疑えない。

 となると、この世にほんとうの色というのは、いったいあるのだ
ろうか、みんな、心に感じたものを直接伝えることは出来ずに言葉
を使って何かを伝える。言葉に対応するその「何か」は、必ずしも
自分が対応させているものと同じであるとは限らない。同じ料理を
辛いと感じる人も甘いと感じる人もいるように、心の受け取る感覚
なんて、物理量で計測できるものでは決してない。ならば、僕の見
ているオレンジ色の夕日は、あなたには入道雲の浮かんだ真夏の空
の青さと同じ物かも知れず、言葉では理解できたオレンジ色は、じ
つはまるで伝わらないことになるではないか。

 さらに考えを広げるならば、我々が共通の理解として了解してい
る実にさまざまな言葉、その意味するものは、ひょっとしたら、と
んでもなく違うものを、同じ呼び名で呼んでいるだけではないのだ
ろうか。甘い辛いしょっぱいすっぱい、高音低音冷たい熱い、花の
匂いやうんちの臭いだって、約束事できめられた言葉で指示するだ
けで、それは決して同じであることの保証にはならないだろう。

 おなじ人間、ということで感じる共感とは裏腹に、同じ世界に住
んでいるという現実ですら、実はそれを感じる一人一人の心の世界
では、もしも知る手立てがあれば仰天するほどの隔たりが、ほんと
うはあるのかも知れない
 



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